高校3年生の頃のユニークな化学の先生
高校3年生に、化学の先生が担任になった。
化学だからか、いつも白衣を着ていた。
普段は、ほとんど会話がなく、廊下を静かに歩いていた。
背が高く、角刈りで、覇気のない高倉健のようなイメージ。
そんな先生の授業が、めちゃくちゃおもしろかったのだ。
今までのどんな授業より楽しかった。
ダジャレを言っては自分で笑い、生徒いじりがうまかった。
ダジャレは「この問題わかる人?」と問い、誰も手を挙げなければ「君たちは高3なので降参か?」と言い、自分でクククッと笑うのだ。
普段、ほとんどしゃべらなく喜怒哀楽がないように思われた先生が、授業の時だけ人が変わったようにしゃべりまくるのに最初は驚いた。
それから「化学は、君たちの受験科目ではないから、僕の授業は聞かずに英単語を覚えていなさい」と言い、いじっても大丈夫な女子には「でも、◯◯さんだけは僕を見ていてね」と付け加え、笑いを誘った。
少しふざける男子には「◯◯くんは、寝ていなさい」と。
本当に英語を勉強している生徒がいても怒らず、化学の中間・期末テストに出るところは「中途半端はヤメテ」と黒板に書き出し、中途半端にではなく事前にガッツリ教えてくれた。
おもしろいから、みんな授業を聞いていた。
卒業式
私は高校の時、ほとんど勉強しなかったから、大学受験は全滅だった...。
卒業式に入試している大学があり、受験した。
進路が決まっていないのに、卒業式に出たくないという気持ちもあったからだ。
でも、今思えば卒業式に出た方がよかった。
体育館での卒業式が終わり、教室に戻ってきた時、担任の先生が約束していた演歌を歌ってくれたそうだ。大爆笑だったと聞いた。
聴きたかったなぁ。
私は受験を終えてから高校へ行ったら、担任の先生が卒業証書を読み上げてくれ、渡してくれた。
結局、卒業式に受けた大学も落ち、1浪することになった。
本当は専門学校へ行きたかったが親が許してくれなかった。
これも今思えば、親の言うことを聞かず、強引に専門学校へ行くべきだった。
惨めな浪人生活
浪人してわかったけど、本当に行きたい大学がなければ浪人なんてするもんじゃない。
浪人した1年間は、本当に絶望な日々だった。
詰め込み教育の時代だったから、覚えることをひたすらノートに書いていくことを教えられた。
勉強方法がわからなかったので、言われた通り、ひたすら書きまくってボールペンでノートが真っ黒になるまで書き続けた。
だが、学力が上がっている実感はなかった。
だけど、緩やかに少しずつ上がっていたようだ。
12月はじめに事件が起こる。
はじめて付き合った女の子にフラれたのだ。
短大に通っていた彼女から電話で「もっと遊びたい」と...。
正直、心の支えだった彼女にフラれ、まったく勉強しなくなった。
予備校の授業を終えた後、自習室で書きまくる勉強をしなくなり、映画館へ行き、ボ〜ッと映画を観ていた。
フラフラと1ヶ月間を過ごし、何やっているのだろう?と思っていた時、何気なく徒然草を読んだら感銘した。
あれ? 昔の人は良いこと書いていると思い、古文を読みあさり、国語の過去問をやり続けていたら、似た問題が多いことに気付いた。
ひっかけ問題をよく使い回しており、本文の棒線を引っぱっているのを見ただけで、問題が予測できるようになった。
全国テストの時、一番苦手だった国語が満点を取れた。
自分でも驚いた。
やっと勉強の仕方がわかった瞬間だった。
しかし、詰め込み教育で覚えていた英単語をまるっきり忘れていた...。
国語だけ飛躍的に向上したけど、他の教科が下がってしまい、そのまま受験になり、ギリギリ最低ラインの大学に合格したのだった。
高校の進路指導の先生に会いに行った時、緩やかに成績が伸びた後、急激に落ち、そこから急激に伸びている時に受験しているから、もう一浪したら?と言われたが、もう浪人生活はコリゴリなので、なんとか合格した大学に通ったが、周りがバカなことに気付く。
真面目に大学の授業を受けに通っていた私のノートのコピーを試験の時に、みんなが持っていた。
大学のテストは独特で、短い一文の問いに対して大きな余白部分に記入するというもの。
こんなの暗記して答えられないと思っており、最初はC判定の評価が多かったが、授業を真面目に聞いていた私は先生の解説に疑問を持ったことを書いたらいいんだっと気付き、授業で先生はこう説明されていたが、こんな考えもあるのでは?っということを書いていったら、暗記せずにどんどん書くことができ、そうしたらA判定だらけになった。
しかし、たいした大学じゃないから、判定が良くてもとくにメリットはなく、落第しなければよかっただけだった。
それから、就職して社会人になっていった。
スポンサーリンク