子育て日記|子供は小学1年生

小学1年生になる子供の関心や悩みを一緒に考えます。小学6年生になりました。中学受験へ向けて勉強中!

子供の成長の振り返り

子供の成長を振り返ってみる

というよりも妻の母親との戦いだった...。

誕生前

なかなか子供が授からず、不妊治療や子宝スポットに子供が授かるようにお参りしていた。

妻の親戚は酷くて、怒鳴るように「早く子供を産め!」と心無い言葉を掛けられた...。

妻の両親が、私たちの居ないところであちこちに「孫の顔が見たい」と言っており、私たちの苦労も知らず、それを聞いた人たちから、よかれと思って私たちに「早く孫の顔を見せてやりなさい!」「子供が居たら、かわいいよ」とか好き勝手に言われた。

それがずっと続くので、妻は妊婦を見かけたら、苛立つようになっていた。

妊娠

妻が妊娠したが、高齢出産になるため、医者からダウン症の検査を勧められる。

妻はどんなことがあっても、産む決意は変わらないはずだから、検査を拒否した。

誕生直前

予定日を過ぎても産まれず、妻はツラそうに苦しんでいた。

病院から一旦、自宅に帰され、歩いた方がいいと言われ、屋上で一生懸命に「ふ〜、ふ〜」言いながら歩いていた。

そんな時、妻の母親から「まだ産まれてないなら働きに来て」と電話が入る...。

普通「大丈夫ね」の電話ならわかるが、人のことより自分のことが大切な人なので、過去一ワガママな発言と思った。

出産

夜中に子供が産まれた。

破水していたので、緊急で帝王切開になった。

今では連絡したことを後悔しているが、妻の家族に電話して病院へ呼んだ。

妻の姉に電話したら「はぁ?行った方がいいの?」と返事された時から後悔が始まる。

病院に来てから、妻のカラダの心配よりも、自分たちの欲望のまま好き勝手に話していた。

無事に出産できて、ホッとしている段階の時に妻の母親が「子供は私が育てる」と言い出し、何を言っているのだろう?と思った。

家族経営の会社で、父親と姉がよく怒る人だから、子育てという口実で、自分だけ逃げ出そうというのが読めた。

それよりも、その母親が風邪を引いた状態でお見舞いに来ていたから、私と妻は風邪を移され、ひどい風邪を引いており、さらに2日間、寝ずに苦しんでいたので爆睡した。

0歳

出産内祝いに、妻の友人の実家が農家で、お米を生産しているから、そこに、子供の産まれた時の体重に合わせて袋に入れてもらった。

これが大失敗で、妻の母親のところにある程度、持っていっていたが、足りなくなったら「持ってこい」との催促の電話が頻繁にかかってくる。

はい、腰を痛めてしまった...。

いいアイデアと思ったが、軽いタオルにするべきだったと後悔したのだった。

初孫で嬉しいのはわかるが、こちらは子供の夜泣きで寝れない日々なのに、自ら孫が産まれたことをいろんな人やお客さんに言うから、お祝いをもらったら「お礼を言いに行きなさい」と連絡がくる。毎日、何回も...。

妻も私も、妻の母親からの電話が恐怖になっていた。

着信音が鳴るだけでビクッとなり、青ざめてしまう。

次第にノイローゼになり、2人とも交代で精神科の病院へ通った。

その当時に流れていた曲を聴くと、妻は今でも拒絶する。

私も子供はかわいかったが、記憶が断片的になっており、もっと子供との思い出をたくさん作りたかった。

1歳

この頃の記憶が一番失っている。

でも、精神科の病院に通うのを絶って、子供の笑顔で何とか復活していった。

できたら、この頃に戻って幼い子供に会いたいなぁ。

2歳

保育園に預けることにした。

しかし、保育園に入園するのが、かなり困難。

家庭ごとに点数が割り当てられ、点数が高い方から優先的に入園できる。

片親だと点数が高いなど。

絶望的な感じだったが、1ヶ所だけ、新たに2歳児の受け入れを開始するところがあり、すんなり入園することができた。施設の名称は保育園ではなく幼稚園。

私が子供の頃、親からずっとほったらかし状態で1人で遊ばないといけなく、5歳の幼稚園から同級生と初めて対面した。こんなに同級生がいたことに驚いたのを覚えている。

保育園に通っていた子供も多く、すでに仲良くなっている子供が多かったが、私はコミュニケーション能力が欠けた状態なので、どう接したらいいかわからなかった。

よって、子供は幼い頃から同級生と遊べる環境にしたかったというのがある。

それと、妻の母親から逃れることが大きな理由の1つだった。

最初は子供が寂しくて、私たちが迎えに来るまで、タオルを握りしめていたみたい。

一緒に選んだタオルなので、子供はそれを握っていると安心したようだ。

次第に、環境に慣れていき、幼稚園を楽しむようになった。

今では、人見知りをせず、友達を作るのが早い。

3歳

年少になり、幼稚園にも慣れ、自転車での送り迎えの生活。

子供がかわいい時期だったが、記憶が曖昧になっている。

妻の母親に振り回され続け、ストレスが大きかったようだ。

4歳

年中になった。

妻の父親がボケ始めた。

施設に入るが脱走したり大変な日々。

妻の自由時間が減り、今まで半分の割合だったが、私が全面的に育児・家事を担当することになった。

5歳

幼稚園で年長さんになり、お泊まり会や社会科見学的なバスでの移動イベントが増えた。

合気道に通ったが、師範はすごい人だけど、あまり怒らないから、ふざける子供が増え、息子が一番年下なのに、見本として前に出るようになった。
いい子は別の教室へ移動していき、そのうち息子が悪い影響を受け始めるからヤメることにした。
高校生から大人と混じってできるため、高校生から再び始めたらいいかなっと思っています。

6歳

小学校へ入学。

成長の早さを感じる。

留守家庭の待機児童に入ることにした。

小学校から帰ってきても毎日、一緒に遊んでやれないし、放課後、同級生と遊んだ方がいいと思ったため、子供と話し合って決めました。

もし嫌になったら、すぐにヤメていいと言いつつ。

コロナ前だったので、夏休みには毎日のようにプールに入ることができ、楽しかったようだ。

それと6年生が歓迎遠足、登下校など、1年生の世話をよくしてくれ、お昼休みも一緒に遊んだり、大変お世話になった。

7歳

コロナ禍の生活に入る。

生活環境が変わり、毎日マスク生活。

行事がほとんどなくなり、小学6年生は運動会がなくなったことに涙する子供がいた。

子供は小学1年生の頃、通常の小学生の生活ができて幸せだった。

新たな新1年生は行事や他学年との交流がなくなり、小学校を楽しめなかったかもしれない。

8歳

小学3年生に上がる時、待機児童に通うことをヤメた。

様子を見ていて、待機児童に長く通っている子供は陰険な性格な子供が多いように感じたからだ。

落とした帽子を見たら踏みつけ、監視の先生が居ないところで暴言を吐いたり、悪さをしていた。

あと、子供の面倒をよくみていてくれた女性の先生が旦那さんの転勤により、引っ越すことになりヤメてしまうからだ。

子供が1人で居たら、すぐに一緒にフリスビーやボール投げをして遊んでくれていた。

妻の母が亡くなり指示してくる人がいなくなったが、妻の姉の暴言が妻は苦痛のようだ。

9歳

小学3年生から「オンライン四谷大塚」に入会して勉強していたが、これは失敗だった。

ほとんど成果がなかった。

小学4年生から、すぐに進学塾へ通うべきだった。

ちょっと早いと思っていたが、4年生から通う通わないでは、差が大きく開いていた。

子供は小学4年生の冬休みから通い始めたが、それでも遅かった。

勉強に取り組む姿勢をいち早く身に付けるべきだったのだ。

10歳

進学塾に通い出して、子供の生活がガラッと変わった。

予習・復習の生活。

学校の勉強は簡単に思えるようになったが、塾へ入るのが遅かったかめ、悪いクラスの方になってしまった。

良いクラスへなかなか上がれない。あと漢字さえマスターしたら上がれそうだが、本人のやる気が低迷していた。

何か運動をさせたいと思っており、子供に適するものが見つからず苦戦したが、体操教室が気に入るかもっと思い、体験へ行ったら楽しかったみたいで、そのまま通うことにした。
もうすぐバク転ができそうである。

11歳

進学塾で、ギリギリ受験のクラスへ入れたが、成績がクラスでビリになる...。

体操教室と英会話教室をヤメ、進学塾のみにして、塾で自習できる時間はできる限り行くようにした。

先生にも質問へいけるようになり、少しずつだが、成績が伸び始めた。

12歳

まもなく12歳になる。

中学受験まで、時間が迫ってきた。

夏期講座が終わり、これからテストの日々になっていく。

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